carezzando



「…そんなっ…!」

愛音は立ちすくんでしまった。
100回以上打たれたお尻は、軽く触れるだけでも痛い。
この上、10回、しかも物差しで打たれるなんて耐えられるだろうか?
だが、自分が悪かった事は重々承知なのだ。
いきなりお尻をむき出しにされたショックと、今まで経験したことの無い痛みにジタバタと暴れてしまったが、本当ならもっと素直に受けなければならなかったのだという気持ちはある。

「どうした?」
そう問いかける声に導かれるように、愛音は物差しを柏木に手渡してピアノの端に手を付き、顔を伏せた。
止まらない涙をぬぐいつつ、しゃくりあげながら物差しを手渡してきた愛音を見て、柏木はふっと微笑する。
「よし、いい子だ。」
ふわりと後ろから聞こえた柏木の声が、優しくなった。
「フルートは指だけ動けば吹けるものじゃない。音質に魅力のないソリストは要らないし、ピッチすら正確に合わせられないならアンサンブルもできない。1日でも楽器を持たない日があると、音のコントロールが途端に効かなくなるのは、自分が一番よく分かっているんじゃないのか?」
「…」
「お前はソリストを目指すんだろう?覚えておきなさい、プロを目指す者が楽器に触れない日があるなんて、音楽に対する冒涜だよ。」
声音は優しいながらも、鋼のような厳しさが内にこもっている。愛音は心がズキリとするのを感じた。
「…本当に…ごめんなさい。」
「それじゃあ、いくぞ。」

ービシッ!!

「…っく!」
優しくなった声音とは対照的に少しも容赦の無い1打だったが、愛音は息を止めて耐えた。
力強く振り下ろされる物差しは、愛音の尻に新たな跡を付けていく。

ービシッ!ビシッ!ビシッ!ビシッ!

「っあ…い…たいっ!」
1打1打は、すでに赤く染まってジンジンと痛む尻に、効果的過ぎるほどの痛みを与える。
それでも愛音は決して逃げることなく、こぶしを握り締めながら耐えた。

ービシッ!ビシッ!ビシッ!ビシッ!

「最後だ」
背中に置かれた手の力が強くなったと思った瞬間、

ービシーッ!!!


「ひっく…っく」
涙が止まらずに、ピアノにしがみついたまましゃくりあげている愛音の頭をぽんぽんとなでて、柏木は「ホラ、終わりだよ」と声をかけた。
ピアノからはがして、こちらを向かせ、抱きしめる。
先ほどの様子からは想像もつかないような優しい柏木だった。
もともと優しい人なのだ、この人は。

愛音の背中をさすりながら、柏木は言う。
「期待しているんだよ、愛音。だからこうして厳しくもする。お前が一生音楽を愛し、音楽と共に生きていくために、必要なことは何でも教えよう。けれどそれを自分の身体にしみ込ませることは、お前自身が楽器と向き合うことでしかできない。分かるね?孤独で地味な作業かもしれないが、決して私が助けてあげられない、お前がお前の音楽を創っていく時間なんだ。」

音楽家として生き、また指導者としても何人もの生徒を見てきているからこその言葉だった。
その言葉のひとつひとつが、素直になった愛音の心に深く沁み通っていった。





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