carezzando



閑静な住宅街に響く、美しいフルートの音色。
それは、一見純日本風に見える大きな屋敷の中から聞こえてくる。
その中の一室で、一人の少女が木製のお洒落な楽譜立てを前にして美しい音色を奏でていた。
大きなグランドピアノの前に座る男は、長い前髪をかき上げながらその音を聞いている。

少女の名は、小田愛音(おだあいね)。
小学校5年生のときからフルートを習い始めて4年目。今年中学2年生になった。
彼女をずっと指導してきた教師がこの、ピアノの前に座る男、柏木准(かしわぎじゅん)である。
若いながらもフルート界では定評のあるソリストで、管楽器奏者のために独自の呼吸メソッドなどを確立して有名になった男だ。
愛音が習い始めた頃には既に演奏活動やオーケストラでの指導依頼がひっきりなしで、ほとんど弟子を取らなくなっていた柏木だったが、愛音は友人の伝手で紹介してもらい、頼み込んで師事することができた。
現在愛音は、柏木のただ一人の弟子である。


今やっているのは、難しいトリルが複雑に繰り返し出てくるエチュードで、入ってもう3週目。なかなかOKをもらえない。
愛音の演奏は、複雑な音型にもテンポ良く指が回っており、技術的には問題ないように見える。
だが、柏木は納得していなかった。


「はい、止めて」
パンと手を叩いて冷たく言い放った彼の声に、愛音はびくりと肩を震わせた。
「…私の言いたい事は分かるな。」
厳しい声音に圧されながらも、愛音は必死で言い訳をした。
「…あの、私ちゃんと練習はしてきたんです。でも今日は…」
「それは練習はしてきたんだろう。これだけ難しいトリルをやりこなしているんだからね。せいぜい休んだのは2日程度です、とでも言うつもりか?それがお前の"ちゃんと"なのか」
「………」
容赦なく、且つあまりに正確に言い当てられて愛音は絶句した。
今週は友達と遅くまで遊び歩いて練習をサボってしまった日が、確かに2日あったのだ。
9時や10時をまわってからの帰宅では、当然練習などできるはずもなかった。

「今日はレッスンを始める前に聞いたはずだ。ちゃんと毎日音を出してきたか、と。お前は何と言った?はい、って言ったな。アーティキュレーションを間違えずに吹けるようになっていれば、私の耳をごまかせるとでも思ったのか?」
「……」
容赦の無い柏木の言葉にただただ俯くばかりの愛音。

「楽器を置いて、ここへ来なさい。」


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